Performing Arts of Magic

今回3人で作ったショーは、恐らく、人々がマジックとして認識しているものとは少し違っていたと思います。とりわけ、個々の持ちネタであるステージマジックは、マジックとしての不思議な現象を起こすだけにとどまらず、ストーリー性を持たせたり、独特なモチーフを織り込んでオリジナリティを出したりと工夫を凝らしてあり、いわばマジックを利用して表現したperforming art(舞台芸術)とも言えると思います。こういったパフォーマンスは、マジシャンたちが集まるマジックコンベンションでは当たり前のように見ることができるのですが、そこから外へ出ていくことは殆どありません(少なくとも我が国に於いては)。かといって、理解に苦しむような難しさがあるわけではなく、どなたにも十分に楽しんでいただけるものであるという自負はありました。「こういうものをマジックを趣味とする方々以外にもご紹介したい」と常々考えていたので、今回の機会を頂いた折、私は敢えてマジシャン以外の方々を中心にお声掛けし、ご来場頂くことにしました。

ところで、ゆみさんがショーのMCの中でおっしゃっていた通り、私たちはマジックを生業としているわけではありません。3人とも学生時代の活動が昂じ、コンテストに出場していくうちに認められ、ゲストパフォーマーとしてとして招待していただけるようになってきた経緯があります。とりわけ私とwalacoさんは、マジックが大好きというよりは「一つのモノ」を完成させるべくコンテスト用の演技のみを作り込んできた感が強く、持ちネタのバラエティが少ないため、他のパフォーマーと一緒にショーの一部に出演するしか、人前に出る機会は得られないのが現状です。
(walacoさんは私より演技の幅が広く、知人の結婚式等で演じているようですし、ゆみさんはMCやクロースアップマジック・サロンマジックなども手がけていて、ご自身のワンマンショーも行なうなど、幅広く活躍されています)

活躍の機会が稀な反面、自分たちの演技そのものに価値を見出された時のみ出向いていくため、興行主の要望に合わせて演技を変える必要は殆どありません。それゆえ自分の表現したいことをとことん追求できるのですが、そのようにして出来上がった演技ばかりを集めて一つのショーを、それも一般の方に向けて構成するのは難儀だったはずです。今回のショーを演出をして下さった鈴木徹さんが「3人は食べ合わせが難しい」とぼやいていたそうです。「食べ合わせが悪い」じゃなくて良かった、とwalacoさんが苦笑していました。

ゆみさんのMCの内容は、鈴木さんとゆみさんが打ち合わせを重ねて練りあげて下さったものです。マジックのライブを初めてご覧になる方が多かったはずですが、そういった方々も、ゆみさんのセリフに導かれるようにして独特なスタイルのマジックの世界に違和感なく引き込まれて行ったのではないでしょうか。

私とwalacoさんは、MCの内容を、実は本番で初めて聞きました。私達自身やそれぞれの演技について、決して飾り過ぎず、それでいて本人も気づかなかったような本質をえぐった言葉で紡がれていくのを幕中で初めて聞いた私は、感無量の心持ちでした。

ところで、私は一時期、マジックコンベンション以外の演技の場を求めて手を尽くしていたことがあります。

数年前、ドイツのマジックコンベンションに出演した際、知り合ったマジシャンから「君の演技ならVariété(ヴァリエテ)に出演できるよ」と言われました。「Variété」はフランス語ですが、ドイツには未だ多数残っている、バラエティショーの興行を行なう劇場のことです。そこではあらゆるエンターテイメント系舞台芸術のパフォーマーたちを集めた公演がほぼ毎日行なわれており、観客は食事をしながらショーを鑑賞することができます。数十人規模の小さなものから、数百人収容できる豪奢な劇場まで規模は様々です。

通常、マジックコンベンションに於いて、マジシャンたちの前で自分の持ちネタを披露すれば、ほぼ間違いなく良い反応が帰ってきます。見せ方や動きのタイミングなどを特に工夫しなくても、十中八九、だいたい同じような反応が得られるので、楽といえば楽なのですが、それに慣れていく程に、万人に受け入れられるパフォーマンスからは遠ざかっていくし、パフォーマンスとして「本物」にはなれていないと感じていました。いつの頃からか、「この界隈の外側へ行きたい」という願望が頭をもたげてきていた気がします。

そして、マジックコンベンションは多数あるとはいえ、出演できる機会は限られています。そんな時に聞いた「Variété」の話は、とても魅力的に見えました。しかし、現実は甘くはありません。

まずはドイツ国内の「Variété」の連絡先を手に入れ、プロモーションビデオを送りました。実は、私の演技を見て「Variété」へのコンタクトを薦めてくれた方が、親切にもそのコンベンションでの演技を撮影し、これを素材に、と渡してくれたのです。その素材がヨーロッパでのビデオ規格であるPALだったため、これまたビデオを編集するまでにひと波乱あったのですが、そのお話はまた別の機会に。

各劇場へは、毎日世界各国のアーティストから自薦他薦の宣材が山のように届きます。開封してビデオを見てもらうのすら難しく、ほとんどがそのままゴミ箱行きなのだという話も聞きました。一箇所からのみ、現実的に出演できそうな件の連絡が来たのですが、劇場からの招待というよりは、そこで度々公演を行なっているマジシャンのグループからの誘いでした。「一般向け」のショーに出演できたことはできたのですが、マジシャンの趣味的色合いの強い公演で、それはそれで良い経験にはなりましたが、その先に広がりがあるものではありませんでした。

次に行なったのは、実際に劇場へ出向くことです。いくつかの劇場ではキャスティング・ディレクターに会うことができ、その場で映像を見せたり、はたまた(ディレクター1人だけのために)演技を見せたりしました。概ね芳しい評価は得られたのですが、ここで「プロの仕事」を求められます。

「どうして君は日本人なのにこんな音楽を使うんだ。もっとアジアの雰囲気を出して欲しい。例えば、初めに銅鑼の音を鳴らすとか」

この人が欲しいのは、私の演技ではなく「アジアの雰囲気」なのでしょう。要望通りにBGMを三味線や胡弓の音が入ったものに変えるのは不可能ではありません。ただ、そういった曲で演じている自分の心持ちを想像すると、それは「有り得ない」選択でした。そして、銅鑼も胡弓も日本のものですらありません。「仕事」を得るためなら、この要望を呑むべきなのでしょう。しかしこんな大雑把で乱暴な「アジア認識」を受け入れて、自分の演技の個性や、生成していくまでの歴史、演技に込めた物語や演技中の気持の高まりを殺すくらいなら、受け入れないことが自分にとっては正解だ、と結論づけました。

「君の演技は扇子ばかりが出てくる。もっとバラエティを持たせないと」

別のディレクターからこのように言われたこともあります。改めて自分の演技を客観的に眺め直すまでもなく、確かに扇子の出現頻度は多いでしょう。そもそも「扇子」を重要なモチーフの一つとした演技なのですから。でも決して「扇子ばかり」ではありません。そもそも、仮に「扇子ばかり」というのが事実だとしても、それの一体何が、パフォーマンスとしていけないのか?「扇子ばかり」という状況に、客が退屈するとでも言うのでしょうか?ひょっとしたら、ディレクター自身、見慣れないものを受け入れたくないだけなのかもしれません。あるいは、万人が受け入れる(と想定される)無難なパフォーマンスを選ぶ義務があるのかもしれません。「それが何故いけないのか」ということを、このディレクターに問い詰めたところで納得できる答えが返ってくるとは思えなかったため、逡巡することもなく、この件は捨て置きました。

Variété巡りをしている時に、ある女性と知り合いました。彼女は劇場関係者でもなんでもなく、宿でたまたま同室になった一般のドイツ人でした。上記のディレクターに会った後再び彼女に会う機会があり、自分の演技の映像を見せることになったのですが、それを見た彼女の第一声が「What a variety!(なんて色々出てくるの!」でした。彼女にとって私の演技は「扇子ばかり」などではなく、「色々なものが出てくる、わくわくするような」演技だったというのです。彼女はマジックに馴染んでいるわけではなく、趣味嗜好が特に偏っているわけでもない、ごく平均的なドイツ女性ですが、Variétéの観客の1人となり得る人物であるとも言えます。私の演技が、そのような方にも十分楽しんでもらえる内容だということがわかったことは、数多のディレクターたちに否定的な感想を投げつけられ続けた私を、どれほど勇気づけたことか!

フランスのマジック専門番組のキャスティングをしている方から、出演の打診を頂いたこともありました。しかしテレビ用に手順を短くするのが必須だったため、お断りせざるを得ませんでした。マジックの世界大会で撮られた映像を放映する際、ハイライトだけ抜き出した映像が使われていることは多々あります。なので実際に演ずるのはフル手順とし、映像を短く編集してもらえないかと訊いたのですが、それは「できない」とのこと。不可能なことではないはずですが、そのように特別扱いしてまで組み入れたいパフォーマーではなかったのでしょう。特に食い下がられることもなく、その話はなくなりました。

手順を短くするのも、やはり不可能なことではありません。しかし曲を変えるのと同様、演じている時の自分の気持を考えると、その演技はもはや自分の演技ではないという気すらしてくるほど、腑抜けたものになってしまう気がするのです。そんな気持で出演することに、価値はない、というのが私の出した結論です。緻密に組まれた手順は、すべての部分が複雑に絡み合って全体を構成しているのです。ネタに関しても、気持に関しても。簡単に入れ替えが効くものではなく、マジックをよく知っている方ならそれは理解できるはずなのですが。この時のキャスティング担当者も、決してマジックに疎いわけではなかったと思うのですが、その方の使命は「テレビ映えのする絵」を「テレビにちょうどいい長さ」に調節して配置することだったのでしょう。

もし、「プロ」であるならば、上記のいずれにおいても、先方の指示通りに演技を変えて応対するべきなのでしょう。

葛藤はありました。曲さえ変えれば、手順を短くすれば、扇子ばかりに見えないように演技を作り替えれば(最後の選択はまず有り得ませんが)…望んだ舞台に出られるのだと。ただ、そのような変更を施した演技は自分がそこで披露したいものなのかどうか、という点のみを考え、全て断念するに至りました。

結局、自分の演技はそのままの形では到底マジックコンベンションの外へは出ていけないものだろう。そう悟った後、しばらく、積極的に出演の機会を探すのを止めていました。

今回の公演を行なうことによって、自分の、マジックの演技に対して立ち止まっていた気持が少しだけ前に押し出してもらえた気がしています。既存の場所に入り込めないのなら、自分たちで作り出せばいい。それすらも簡単なことではなく、より多くの方の協力を仰がなければなりませんが。

それぞれの仕事や生活があるので、そんなに頻繁には行なえないと思いますが、いつか、また同じメンバーで、もしくはその他の仲間も加えたりして、同じ場所で、あるいは全く異なる場所で、同じような機会を持てたらいいな、と考えています。performing artとしてのマジックを、もっと多くの方に楽しんでいただくために。時期を見て、のんびりと実現していきたいものです。

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category: 日々雑感